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野辺地町ハンドボール協会の歩み

●協会創立まで●
   
    昭和52年青森県で開催された「あすなろ国体」では、野辺地町がハンドボール競技会場となった。
    そこでハンドボールを野辺地町のスポーツとして普及させようと、当時野辺地町助役であった浜中正三郎、教育長の若山好
    美らの呼びかけに、国体事務局担当であった山田廣、木明昭一郎、金沢年男が中心となり、齋藤浩、高木達両野辺地高
    校教諭の指導・助言も加わって、53年4月1日に「野辺地町ハンドボール協会」が発足した。
    翌54年、「野辺地町ハンドボール協会」は、県競技団体及び野辺地町体育協会に加入した。
    競技団体発足時の野辺地町ハンドボール協会の役員は、次のとおりである。


設立日 : 昭和53年4月

会 長 : 浜中 正三郎 (昭和53年〜59年)
西村 祐蔵 (昭和60年〜平成9年)
木明 正志 (平成10年〜現在)
副会長 : 山田 廣 (昭和53年〜現在)
木明昭一郎 (昭和53年〜現在)
木明 正志 (昭和60年〜平成9年)
理事長 : 金沢 年男 (昭和53年)
高木 達 (昭和54年)
杉山 修康 (昭和60年〜63年)
滝口 太 (総務部長兼)
(昭和55年〜59年)
(平成元年〜現在)

さらに強化部長には木村満雄、普及部長に斉藤幹雄、そして審判部長として浜野徹を任命した。    


 ●創生期●

    53年に開催された第5回春季社会人大会には、同じように「あすなろ国体」を契機に結成された、青年スポーツ団体「あす
    なろクラブ」の支援をうけ、参加にこぎつけた。
    選手は、この年3月に野辺地高校を卒業した滝口太、斉藤幹雄、野坂信広、また浅野正昭、木村知廣、横浜邦雄、岩川
    充、高木達、野田頭裕司、上田林治、安村好弘、石塚良治、村山敏行、小林淳、野呂裕子(旧姓平尾)、ゴールキーパーの
    大野満、斉藤全健で、「国体少年の部」に参加経験のある者が主力となって大会に臨んだが、結果は惨敗であった。
    53年7月、第33回国民体育大会県予選に男女チームが出場した。
    この時のメンバーは、男子は滝口太、斉藤幹雄、野坂信広の他、バスケットの木村知弘、卓球の村山敏行、フェンシングの
    野田頭裕司、野辺地高校の石塚良治、斉藤全健、岩川充の各先生を加えて結成した。
    また女子は、野辺地高校ハンドボール部第1期生の小山内(川越)優子、小野(須藤)吉子、同2期生瀬川(大山)かつ子、
    元尾道子、そしてこの年卒業した、野呂(平尾)裕子、齋藤(米田)比呂子、白取(前田)登喜子、そしてバレーボールの
    竹内(四戸)りつ子、市ノ渡純子等。
    男子は2回戦、女子は1回戦でそれぞれ敗退した。
    このように、ハンドボール選手以外にスキーやバスケットボール選手を加えないと、メンバーが構成できなかったのである。
    練習も3〜4人のときが多く、内容は走る、パス、シュートぐらいしか出来なかった。
    人数不足のため内容のある練習が出来ないうえ、ハンドボール経験のない者をかりだしていたので、ルールを教えながら
    練習を出勤前に行った。
    54年度からは、高木達理事長のもと、ハンドボール普及活動にも力を入れた。
    例えば、「少年ハンドボール教室」を開催し、40人以上の児童・生徒を集めた。
    活動は週1回のペースで行い、ハンドボールを楽しみながら基礎的な練習を中心にして、「少年ハンドボール大会」で練習
    の真価を発揮した。
    教室は一時休んだ時期もあったが、現在も続いている。   


 ●町民体育大会の開催●

    52年に開催された「あすなろ国体」の成功を記念し、「ハンドボールを町技に!」という町教育委員会の支援の下、「町民
    ハンドボール大会」及び「少年ハンドボール大会」が開催されるようになった。
    「町民ハンドボール大会」は、町内自治会、職場、スポーツ団体によって、チーム編成がなされている。
    大会にはママさんたちも参加していた。
    町民だけでは試合にならなかったので、協会員も何人か参加して試合を盛り上げた。特にキーパーは経験者でないと危険
    であったので、できるだけ協会員があたった。
    また「少年ハンドボール大会」は、前述の「少年ハンドボール教室」の生徒が練習の成果を競い合うために、53年から開催
    された。
    58年には、ハンドボール普及の実績が認められ、日本ハンドボール協会から助成金をいただいた。
    「町民ハンドボール大会」及び「少年ハンドボール大会」は、現在まで8回開催されており、日本ハンドボール協会機関紙
    にも「青森県野辺地町の少年大会」として紹介されている。
    なお、第1回大会は町民への啓発を目的とし、東奥日報に折り込み広告(4200部)を入れた。
    第1回大会(53年12月3日)の女子優勝チームが、「八幡町青年有志会(町内ママさんバレー主体)」であることでもわかる
    ように、町内のハンドボールへの高い意識に加え、高校でもクラスマッチの種目に取り入れられるようになった。

  
 ●低迷期・向上期●

    野辺地町をあげての普及活動の成果か、中学卒業後、野辺地高校、野辺地工業高校でハンドボールを続ける選手が
    増え始めた。
    また、町民にもハンドボールの楽しさを味わってもらうため、「あすなろ国体記念町民ハンドボール大会」も数回開催された。
    一方野辺地クラブは、選手層がまだまだ薄く、特に女子は昭和54年度で休部に追い込まれた。
    男子も58年度まで低迷の時期であったが、「少年ハンドボール教室」の生徒らが次々にクラブに加入し、徐々にクラブの
    力が向上していった。


 ●充実期●

    昭和59年、野辺地工業高校OBが3人加わって、ハンドボール経験者が多くなり、第11回青森県春季選手権大会(4月
    20〜21日:七戸町)で結成以来初の優勝を飾った(1回戦対尾上クラブ:35対18、準決勝対青商クラブ:33対26、決勝
    対青森教員:32対30)。
    チームメンバーは三津谷浩樹、杉山修康(以上GK)、滝口太、齋藤幹雄、野坂信広、板橋智明、大平隆樹、木村満雄、
    清水目博世、角谷公博、荒谷宗明、浅野秀人、五十嵐仁、横浜昭人、木村司の15人だった。

 
 ●国体予選男女アベック優勝●

    60年には、大学卒業生が何にか加入し、戦力もアップした。
    そして第40回国民体育大会予選で優勝し、念願の国民体育大会の出場を決めた。
    また、女子も再結成して国体予選に出場し、そのチームが優勝し、男女アベック優勝を成し遂げた。
    戦績は、第40回国民体育大会県予選会第一次予選会(7月6〜7日:七戸町)が、1回戦対青森教員(23対22)、2回戦
    対海自二空(30対17)で優勝。
    第40回国民体育大会県予選会第二次予選会(7月14〜15:野辺地町)は、男子が1回戦対七戸ユニオン(28対19)、
    2回戦対青商クラブ(24対23)で優勝。
    女子が1回戦対七戸キャッツ(30対9)、2回戦対青森クラブ(17対17)、3回戦対青商クラブ(19対12)、4回戦あすなろ
    クラブ(19対17)の3勝1分で優勝した。
    チームのメンバーは、男子が荒谷宗明、杉山修康(以上GK)、滝口太、齋藤幹雄、野坂信広、浜野徹、駒ヶ嶺智之、
    清水目博世、角谷公博、荒谷宗明、平尾和浩、小塚直毅、五十嵐仁、杉山豊だった。
    女子は、吉田(田沢)晴美、厚坂(横浜)千代美(以上GK)、野呂(平尾)裕子、齋藤(米田)比呂子、荒川(福村)ひろみ、
    中野(山田)千恵子、熊谷(石田)江利子、鳴海(川村)順子、杉山(寺下)江利子、木村(坂本)正代、西村美貴子、
    田中(佐々木)恵、新山(荒谷)かつえ、鈴木(飯田)律子のメンバーだった。


 ●わかとり国体で惨敗●
  
    60年10月に鳥取県境巻市で開催された「第40回わかとり国体」は、1回戦浦添クラブ(沖縄県)と対戦したが、20対35で
    敗れた。
    脚力とフェイントを持ち味にする沖縄は、前半から中間速攻を多用し、終始リードした。
    これに対し、野辺地もエース浜野・清水目を中心に反撃し、ゴールキーパー三津谷もよく守ったが、パスミスや無理なポスト
    攻撃もあり、思うように得点が伸びず、そのまま押し切られた。


 ●全国クラブ選手権への参加●

    61年には、福井市で開催された「第6回全国クラブ選手権大会」に出場した。
    男子は予選リーグ1回戦対羽球会(福井県)(33対10)、2回戦大同クラブ(愛知県)(13対25)、決勝トーナメント1回戦対
    境巻クラブ(鳥取県)(17対28)で、ベスト16に残った。
    出場メンバーは、村山禎親、杉山浩人(以上GK)、滝口太、齋藤幹雄、野坂信広、浜野徹、小塚直毅、木村満雄、清水目
    博世、角谷公博、荒谷宗明、平尾和浩、小笠原徹だった。
    62年には湯沢市で開催された「第7回全国クラブ選手権大会」に出場し、予選リーグ1回戦対県和商クラブ(和歌山県)
    (23対19)、2回戦対46G会(埼玉県)(26対18)、決勝トーナメント1回戦対マツダクラブ(秋田県)(28対17)、準決勝対
    境巻クラブ(鳥取県)(16対24)で、初のベスト8に進出した。
    同大会には、初めて東北予選で優勝した女子も出場し、1回戦対風見鶏クラブ(兵庫県)(6対16)、2回戦対日川クラブ
(山梨県)(8対15)という戦績だった。
    昭和63年から平成5年まで、国体青森県予選会で連続優勝し、「東北総合体育大会(東北ミニ国体)」に連続出場したが、
    国民体育大会には一歩及ばず、出場権を得られなかった。 


 ●躍進期●

    平成6年「第21回東北総合体育大会(ミニ国体)」(8月21〜23日:名取市)で、男子は準優勝となった。
    戦績は、予選リーグ1回戦対松ノ葉クラブ(岩手県)(29対14)、2回戦対クラブ大楯(山形県)(29対19)、
    決勝トーナメント準決勝、対羽後クラブ(秋田県)(25対24)、決勝対全宮城(宮城県)(25対33)であった。
    そして10年ぶりに「第49回わかしゃち国体」の出場権を得た。
    愛知県豊田市で開催された「第49回わかしゃち国体」では、1回戦境巻クラブ(鳥取県)と対戦し、24対23で勝ち進んだ。
    このゲームは、前半速攻・回り込みとスピードのある攻撃を見せる野辺地クラブ(全青森)のリードで始まったが、徐々に固
    さのとれた鳥取が速攻とサイドシュートで追い上げる。
    横浜、横山のナイスキーピングもあり、一進一退の攻防を見せたが、鳥取がポストで3点リードした。
    後半、立石・小阪の活躍で活気づいて追い上げ、追いつき、残り1分で横山が7メートルスローを止めて、嶋川のシュートで
劇的な幕切れとなった。
    2回戦は、千葉選抜(千葉県)と対戦し、28対32で惜しくも敗れた。
    順天堂大学生と、全日本ジュニア代表が合体した強豪チームである千葉を相手に、前半パスミスや無理なポスト攻撃など
    もあり、千葉に逆速攻を決められ、10点差を点けられた。
    後半固さもとれ、1人でゴールを守った横浜、立石の活躍により追い上げたが及ばなかった。
    しかしながら青森国体以来の第5位入賞を果たすことができた。


 ●日本リーグ野辺地大会●

    結成以来、男子は、青森県春季大会計11回、国体予選計13回、青森県秋季大会計8回、女子は青森県春季大会
    計3回、国体予選計1回、それぞれ県優勝という成績を残している。
    また各種大会も開催し、昭和57年・昭和62年と平成4年・平成18年には「東北総合ハンドボール選手権大会」を、また
    昭和59年・平成15年には「東日本学生選手権大会」、さらに昭和60年・平成3年・平成9年には「東北総合体育大会
    ハンドボール競技会」、そして、平成4年には「第17回日本リーグ野辺地大会」を開催し、800人の観衆があつまった。
    また、平成14年にも「第27回日本リーグ野辺地大会」を開催した。
    「第17回日本リーグ野辺地大会」は、日新製鋼対三陽商会(33対32)(一部男子)、ジャスコ対大崎電気(34対31)
    (一部女子)、ソニー国文対ムネカタ(34対20)(二部女子)で、野辺地高校ハンドボール部出身の木村信弥(日新製鋼)、
    田中康子(大崎電気)、村上望美(ムネカタ)の3人も出場した。
    この大会の開催にあたっては、野辺地クラブがプログラムに載せる原稿や、アナウンスに使用する各チームの紹介原稿
    などの作成にあたってワープロが大活躍であった。
    また参加各チームの紹介原稿を作成するため、鹿児島をはじめ各都道府県の参加チームに電話連絡して原稿集めの
    協力したが、これは大変な作業であった。
    運営費としては、日本協会からの開催料の他に、寄付や援助を募った。
    また大会中の人集めのため案内文書を持参し、近隣町村を回って800名ほどの動員協力を得た。
    町立体育館はほぼ満杯となった。


 ●未来に向けて●

    平成元年には、「あすなろ国体記念青森県スポーツ奨励賞」を受賞し、平成19年には、文部科学省より「生涯スポーツ
    優良団体」を受賞し、野辺地スポーツ賞も23回受賞している。
    現在は、会長他男女50人の大世帯となり、男子は県内初の同一チームから3チームを結成した。
    当町ハンドボールの産みの親である齋藤先生の”白線を消すな!”を合言葉に週2回の練習を欠かさず活動している。



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